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■湯平の政治史

◆古代

湯平は、律令時代より豊後国速見郡由布郷に属する。

豊後国風土記によると、豊後国には8つの郡、40の郷、里は110があり、日田、球珠(くす)、直入、大野、海部、大分、速見、国崎であり、さらに速見郡の中には5箇所の郷、13の里、1箇所の烽(とびひ)があったという。
朝見、八坂、由布、大神、山香がそれである。

風土記とは、和銅6(713)年に、時の律令政府が諸国に命じて、国・郡・郷の所在や地名の由来、その土地の伝説、土地の産物、動植物の生態、古老らの伝聞などをまとめさせたものであり、今日では、「出雲、常陸、播磨、肥前、豊後」の5箇国のものが残されているに過ぎず、そのうち完全なものは出雲風土記のみである。

さて、公地公民を原則にした律令制度も平安時代に入ってある時期から次第に崩れていき、由布郷には、宇佐弥勒寺の荘園である由布荘が成立する。


◆中世

鎌倉時代になると、大友能直が豊後国の守護に任ぜられ大友氏の支配が始まる。

由布院には大友氏の支族である戸次太郎時頼という武士が地頭に任ぜられ、鎌倉時代を通じて、戸次氏の支配下にあった。

だが、鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代になると、大友氏の直轄領となっている。

柳川の立花家に残る柳川大友家文書によると、この頃の由布院は大友惣領家8代・氏時の直轄領となっている。

このことは、一族の間でも南朝方と北朝方に分かれて戦うという、混沌とした世相を反映している。

すなわち、時の領主・戸次頼時は、南朝方に組したために、北朝方であった大友氏時によりその所領が没収され、北朝方として勲功のあった島津氏に与えられた。

だが、島津氏は薩摩・日向に根拠を置き、遠隔の地であったために、統治が難しいとの理由で、その地は大友氏に譲られた。

これは大友氏自身にとっても同じで、同氏はもともとの祖先の地である相模国大友郷(神奈川県小田原市)や同国三浦長坂郷、上野国利根荘(群馬県)などの遠隔の所領を8代・氏時10代・親世の代までは持っていたが、それ以降には放棄もしくは他の勢力に横領されている。

また、先述の戸次氏の一門である戸次浄心重親と思われる)も近隣の勢力からの横領を恐れたのか自身の所領を(名目的に?)大友氏に譲っている。

そして、戸次浄心自身は、大友氏の地頭の元で、地頭代として実質的に由布院の地を支配したのである。


やがて、戦国時代になると、由布院衆なる武士団が台頭し活躍をみることになる。

彼らは大友氏支配下の由布院において、戸次氏などと同様、地頭代やその他の在地開発領主として、末端の支配を担った者たちであり、独立した領主として成長したのである。

彼らはやがて、守護大名から戦国大名へと転身を遂げた大友氏のもとで家臣団に組み込まれた。

彼らのうち有力な者として、奴留湯氏、右田氏、荒木氏、などが挙げられるが、、念のため、文禄初年の朝鮮出兵時に時の大友義統に供奉した由布院衆の面々を紹介しよう。

右田治部少輔 奴留湯新助 右田大炊助 荒木源右衛門尉
右田左馬助 厚遠江守 奴留湯中務少輔 荒木進允
荒木右京亮 幸野又三郎 厚右近允 白仁刑部丞
右田刑部少輔 荒木大炊助 荒木舎人允 八坂兵部少輔
右田大学允 右田民部少輔 右田勘解由允 右田源内允
荒木源内允 八坂七郎 針左馬助 白仁弥助
厚蔵人助 八坂主馬允 奴留湯左京亮
幸野外記允 荒木新介


彼らのほかに由布院に関連のある氏族に、先述の戸次氏のほかに、由布氏や岡部氏などがあげられるのだが、いずれも、戦国末期には、由布院での地盤を失い、他の地域に本拠を移したものと思われる。



だが、文禄2(1593)年、時の大友吉統は、朝鮮の役での失態を秀吉に咎められて改易・除国となり、大友氏の支配は終焉を迎える。

豊後国は細かく分轄されて秀吉の家臣たちに分け与えられ、それまで大友配下において在地領主だった者たちは、新しくやってきた支配者たちによってその領有権を否定されたのである。

そして、ある者はあくまで武士の身分に固執し父祖の地を捨てて他国の大名家に仕官し、ある者は父祖の地で武士をやめて、帰農し、庄屋などを務め、またある者は出家して寺の開基となる、というようにそれぞれ散り散りになっていったのである。



◆近世

大友氏の除国ののちにはこの地は細川氏の領分となる。

元和9(1623)年に松平忠直が福井藩主の座を追われ豊後に流されてきた時に、湯平温泉は忠直の賄い領の一部となる。

だが、慶安3(1650)年、忠直の没後には、天領となり、正徳2(1712)年には牧野氏支配の延岡領となる。

この時点での領土の配分は少々複雑である。

延岡藩は豊後国内に2万石の飛び地を与えられ、山浦の枝郷倉本、中山、田伏、湯平、畑、小平、幸野がその中に含められた。

そして、花合野中津留のみ天領として残されたのである。

その後、牧野氏が延享4(1747)年に常陸に転封したあとは、内藤氏がその版図を支配し、明治維新まで続いた。

(続く)